平野屋新田会所

■大東市指定史跡「平野屋新田会所千石蔵跡・道具蔵跡・船着場跡」

○深野池の開発は300年前の江戸時代中期に約9年かかって行われ、多くの新田が誕生しました。そのうち深野南新田(現在の大阪府大東市谷川、深野南、平野屋、南新田)は東本願寺難波別院(ひがしほんがんじなんばべついん)が開発した新田の一つで、1719年の再検地時の記録では平野屋又右衛門の所有となっていました。平野屋の地名はこれに由来しています。

○新田会所は、新田を所有する商家が新田の管理運営などを行うため、出先機関として設置したもので、市内には平野屋のほか、深野や諸福(もろふく)などにもありましたが、どれも建物は現存していません。

○「平野屋新田会所」は、開発された深野池南部(大東市南東部周辺)の新田を管理運営した施設でした。建物は平成20(2008)年に宅地開発のため失われましたが、平成22(2010)年に千石蔵(米蔵)・道具蔵の基礎と船着場の階段が残る跡地の一部476.07平方メートルを大東市が公有化し、平成31(2019)年3月に大東市の史跡に指定しました。

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指定地内の遺構は、調査後多くが埋め戻されています。しかし写真右上にある会所屋敷神であった坐摩(ざま)神社の建物以外の管理棟・座敷棟・蔵類・長屋門などの建物部分は消失しています。道具蔵に収納されていた踏車(ふみぐるま・水車)は大東市歴史民俗資料館に収蔵されています。石灯籠や歌碑などのほか会所や平野屋地区所有の文書や絵図、坐摩神社奉納品など、新田開発の歴史を語る品々が多く残され、順次調査されています。教育委員会発行の「平野屋会所文書」や歴史民俗資料館での平野屋会所に関する「展示図録」などを参照ください。(写真と資料は、大東市教育委員会・歴史民俗資料館所有)

■  千石蔵   ■
・東西方向桁行約22m、南北方向梁間約6mの東西棟の建物でした。
・堀に直接面する北面の間知石(けんちいし)は7段で、石積みの 高さは約3mあり、さらにその下には、石が沈み 込まないように根太(ねた)が敷かれていました。(写真左:中川良夫氏撮影、石積み下部写真:大東市HPより)

■ 道 具蔵   ■
・平成20年(2008)に建物が解体され、現在は礎石が残っています。・約11.5m×約4m 切妻造桟瓦葺の蔵でした。・壁で仕切られた2室で、踏車10数台が納められていました。
踏車の多くは、大東市諸福(もろふく)で作られていたものが収蔵されていました(写真最後:踏車工房名「河内 諸福大仁」の刻印と新田持ち主の四代目地主のマーク・諸福は大東市の西部の地区名) 写真「踏車を踏む少女」は、平成2年大東市立歴史民俗資料館発行「近世大東の新田開発」より
*布石の一つに新田初代地主平野屋又右衛門の「又」の刻字石が使われています。

2021年の様子(写真上から千石蔵の礎石・道具蔵の礎石・千石蔵北側の濠跡)